これは、貴重なお話がいっぱいあるに違いない!ということで、
シリーズ化して、先生のお話を伝えていきたいと思います。
1回めの今日のテーマは「ヒッチハイク」です。
どうぞ、お楽しみ下さい。
タバタビト:今回は50年近く前に先生がフィンランドでヒッチハイクをされたお話をお伺いします!
実は、私のホストファミリーはKerava(ケラヴァ)に住んでいて、私がフィンランドへ行った時はここが拠点となるのですが、先生は最初にこちらの町に滞在されたそうですね?
本多:そうです。1967年フィンランドに渡り、Kerava(ケラヴァ)で生活を始めました。
今のケラヴァは発展して大きな都市になっていますが、ヘルシンキから30キロほど北のこの町は当時は退屈な田舎町でした。
タバタビト:Kerava(ケラヴァ)は現在電車でヘルシンキから30分ほどですね。郊外の雰囲気もありますが、今は大きなスーパーやレストラン、専門ショップ、図書館など、暮らすのに不便はありません。駅近くの広場ではよくお祭り(イベント)もやっていて、賑やかな町のイメージですが、さすがに1967年当時はなにもなかったのですね。
(現在のKeravaの町・2012年撮影)
本多:はい、なので土曜日になるとヘルシンキに出かけ、1泊日本人宅にやっかいになり、日曜夜に帰宅するのが習慣となりました。それまでは少し割安な往復切符を買って(当時はまだ往復切符があった)電車で行っていたのです、夏の余韻が残る8月半ば、ヒッチハイクをすることにしました。
タバタビト:ヒッチハイクとは思い切りましたね!
本多:交通費をケチるということではなく、今思えば、フィンランド人と交流してみたいという気があったのかもしれません。
タバタビト:最近、日本でヒッチハイクする外国人に密着したTV番組をよく見かけますが、確かに人と人の心が通い合いますし、またその国の人の性質を知るのに良さそうですね。
本多:はい、それで晴れ渡った畑の続く道をとぼとぼ国道まで歩き、親指を立ててヒッチをし始めました。ラッキーなことに数台見送った後すぐにミニクーパーが停まってくれました。
タバタビト:すぐに停まってくれるなんて、すごいですね。
本多:ヘルシンキと言ったらOKだと言われました。まずは、乗り込んで自己紹介。ドライバーは若いビジネスマンらしく、品のいい青年。当たり障りのない話をしながら行ったのだと思うんですが何処をどう通って行ったのか記憶にありません。
タバタビト:記憶がないくらい、きっとその人にとってはヒッチハイクは特別ではなく自然なことだったのでしょうね。
本多:そしてヘルシンキ駅で降ろしてもらった時、お礼に日本の版画しおりを出そうと懐に手を入れたら、金を払うとでも思ったのか、「いいよ、いいよ」と拒むのです。そこで、芸者のしおりを差し出すと「ああ」と言って照れ笑いをしていたのが印象的でした。
タバタビト:フィンランド人の照れ笑い、想像つきます(笑)
本多:それから半年ほどして、毎週厄介になっていた友人(日本人)からヒッチハイクしてヨエンスー(Joensuu)に行かないかと誘われました。ヨエンスーにはその頃、館野泉さんがいました。
タバタビト:左手のピアニストとして有名なフィンランド在住の日本人の方ですね。
本多:ええ、その時は2月の初旬、真冬でした。4号線を北上してラハティ(Lahti)、ヘイノラ(Heinola)と順調に乗り継いで進みました。ラハティを過ぎると当時は国道が舗装されていませんでしたが凍った道路はなめらかで快適だったのを覚えています。それも春になって融けだしたら悲惨なことになるでしょうね。
タバタビト:国道が舗装されていないとは、時代を感じますね。それにしても、またまた順調なヒッチハイクですね。
本多:相棒は、滞在2年目で、私よりフィンランド語がうまく話せたのです。運転手の機嫌を伺うのも彼の役目でした。
タバタビト:どんな方が乗せてくれたのですか?
本多:ヘイノラから乗せてもらった車は、営業マンのようで、何やら商品をわんさと積んでいました。スッポリとその商品の中にうずまり、身動きできずにはまって行ったのです。
タバタビト:それもヒッチハイクの醍醐味ですね。
本多:そうこうする内にヴァルカウス(Varkaus、窃盗という意味である)という街で降ろされました。しかし、ここまで順調だったのに、その先のヨエンスー行きの車がなかなかつかまりません。この季節、昼でも早く暗くなるのでのんびりはしていられません。探せばあるのでしょうが寒さも手伝って宿も見つからないのです。
そこで少し大きな街に行こう、とミッケリ(Mikkeli)に戻ることにしました。
タバタビト:真冬のフィンランドの路上で宿も車もないのは、想像を絶する恐怖ですねー。
本多:厳寒の国道を歩き始めたのですが、車が全く通りません。なんと、袋に入れていたチーズが石鹸のようにカチカチになっていました。その後、車の音がしたので振り向き、その車に向かって二人揃って親指を立てました。しかし期待も虚しく追い越され、テールランプは見えなくなってしまいました。
タバタビト:うわぁー、絶望的です…。スローモーションでその場面が見える気がします。
本多:こうなると一層寒さがこたえます。と、そこへ乗用車が消えた先から現れてくれました。戻って来てくれたのです。
タバタビト:救世主!
本多:運転手は若い女性でした。何処から来たの、何処へ行くのと、いつものやりとりがあって、こんな季節にヒッチなんかするものじゃないとおしかりを受けました。結局、ミッケリ(Mikkeli)まで送ってもらって宿探しをしました。
タバタビト:命拾いしましたね、次の日は仕切りなおしてヨエンスー(Joensuu)まで向かったのですか?
本多:ところが、翌日は同じ道を何台か乗り継いでラハティ経由でヘルシンキへ戻りました。
タバタビト:前日の状況を考えたら、懸命な判断ですね。
本多:突然我々が飛び込んで来られたら館野さんも困っただろうし、ヴァルカウスからあのまま歩いていたら、凍死体になっていたかもしれません。今思い返すと若気の至り、冷や汗が出ます。
タバタビト:若いころは、「今考えるとバカだった」という無謀なことをしでかしますよね。
私も身に覚えがあります。
最後に、ヒッチハイクをしてみて、フィンランドという国や人について感じたことを教えて下さい。
本多:フィンランドは第2次世界大戦で日本と同じ敗戦国で、多額の戦後賠償を払い終えた上、その後は高速道など社会基盤をたった500万人(当時)でしっかり整備していることに、堅実な国民性を感じました。また、フィンランド人はニコリともせず、顔つきはとっつきにくいのですが、話せばまじめで親切な人が多く、その後も2年間にわたって多くの人に世話になり、助けられたりしながら生活することが出来ました。
タバタビト:楽しいお話をありがとうございました。
本多先生が担当するフィンランド語講座。
シリーズ化して、先生のお話を伝えていきたいと思います。
1回めの今日のテーマは「ヒッチハイク」です。
どうぞ、お楽しみ下さい。
タバタビト:今回は50年近く前に先生がフィンランドでヒッチハイクをされたお話をお伺いします!
実は、私のホストファミリーはKerava(ケラヴァ)に住んでいて、私がフィンランドへ行った時はここが拠点となるのですが、先生は最初にこちらの町に滞在されたそうですね?
本多:そうです。1967年フィンランドに渡り、Kerava(ケラヴァ)で生活を始めました。
今のケラヴァは発展して大きな都市になっていますが、ヘルシンキから30キロほど北のこの町は当時は退屈な田舎町でした。
タバタビト:Kerava(ケラヴァ)は現在電車でヘルシンキから30分ほどですね。郊外の雰囲気もありますが、今は大きなスーパーやレストラン、専門ショップ、図書館など、暮らすのに不便はありません。駅近くの広場ではよくお祭り(イベント)もやっていて、賑やかな町のイメージですが、さすがに1967年当時はなにもなかったのですね。
(現在のKeravaの町・2012年撮影)
本多:はい、なので土曜日になるとヘルシンキに出かけ、1泊日本人宅にやっかいになり、日曜夜に帰宅するのが習慣となりました。それまでは少し割安な往復切符を買って(当時はまだ往復切符があった)電車で行っていたのです、夏の余韻が残る8月半ば、ヒッチハイクをすることにしました。
タバタビト:ヒッチハイクとは思い切りましたね!
本多:交通費をケチるということではなく、今思えば、フィンランド人と交流してみたいという気があったのかもしれません。
タバタビト:最近、日本でヒッチハイクする外国人に密着したTV番組をよく見かけますが、確かに人と人の心が通い合いますし、またその国の人の性質を知るのに良さそうですね。
本多:はい、それで晴れ渡った畑の続く道をとぼとぼ国道まで歩き、親指を立ててヒッチをし始めました。ラッキーなことに数台見送った後すぐにミニクーパーが停まってくれました。
タバタビト:すぐに停まってくれるなんて、すごいですね。
本多:ヘルシンキと言ったらOKだと言われました。まずは、乗り込んで自己紹介。ドライバーは若いビジネスマンらしく、品のいい青年。当たり障りのない話をしながら行ったのだと思うんですが何処をどう通って行ったのか記憶にありません。
タバタビト:記憶がないくらい、きっとその人にとってはヒッチハイクは特別ではなく自然なことだったのでしょうね。
本多:そしてヘルシンキ駅で降ろしてもらった時、お礼に日本の版画しおりを出そうと懐に手を入れたら、金を払うとでも思ったのか、「いいよ、いいよ」と拒むのです。そこで、芸者のしおりを差し出すと「ああ」と言って照れ笑いをしていたのが印象的でした。
タバタビト:フィンランド人の照れ笑い、想像つきます(笑)
本多:それから半年ほどして、毎週厄介になっていた友人(日本人)からヒッチハイクしてヨエンスー(Joensuu)に行かないかと誘われました。ヨエンスーにはその頃、館野泉さんがいました。
タバタビト:左手のピアニストとして有名なフィンランド在住の日本人の方ですね。
本多:ええ、その時は2月の初旬、真冬でした。4号線を北上してラハティ(Lahti)、ヘイノラ(Heinola)と順調に乗り継いで進みました。ラハティを過ぎると当時は国道が舗装されていませんでしたが凍った道路はなめらかで快適だったのを覚えています。それも春になって融けだしたら悲惨なことになるでしょうね。
タバタビト:国道が舗装されていないとは、時代を感じますね。それにしても、またまた順調なヒッチハイクですね。
本多:相棒は、滞在2年目で、私よりフィンランド語がうまく話せたのです。運転手の機嫌を伺うのも彼の役目でした。
タバタビト:どんな方が乗せてくれたのですか?
本多:ヘイノラから乗せてもらった車は、営業マンのようで、何やら商品をわんさと積んでいました。スッポリとその商品の中にうずまり、身動きできずにはまって行ったのです。
タバタビト:それもヒッチハイクの醍醐味ですね。
本多:そうこうする内にヴァルカウス(Varkaus、窃盗という意味である)という街で降ろされました。しかし、ここまで順調だったのに、その先のヨエンスー行きの車がなかなかつかまりません。この季節、昼でも早く暗くなるのでのんびりはしていられません。探せばあるのでしょうが寒さも手伝って宿も見つからないのです。
そこで少し大きな街に行こう、とミッケリ(Mikkeli)に戻ることにしました。
タバタビト:真冬のフィンランドの路上で宿も車もないのは、想像を絶する恐怖ですねー。
本多:厳寒の国道を歩き始めたのですが、車が全く通りません。なんと、袋に入れていたチーズが石鹸のようにカチカチになっていました。その後、車の音がしたので振り向き、その車に向かって二人揃って親指を立てました。しかし期待も虚しく追い越され、テールランプは見えなくなってしまいました。
タバタビト:うわぁー、絶望的です…。スローモーションでその場面が見える気がします。
本多:こうなると一層寒さがこたえます。と、そこへ乗用車が消えた先から現れてくれました。戻って来てくれたのです。
タバタビト:救世主!
本多:運転手は若い女性でした。何処から来たの、何処へ行くのと、いつものやりとりがあって、こんな季節にヒッチなんかするものじゃないとおしかりを受けました。結局、ミッケリ(Mikkeli)まで送ってもらって宿探しをしました。
タバタビト:命拾いしましたね、次の日は仕切りなおしてヨエンスー(Joensuu)まで向かったのですか?
本多:ところが、翌日は同じ道を何台か乗り継いでラハティ経由でヘルシンキへ戻りました。
タバタビト:前日の状況を考えたら、懸命な判断ですね。
本多:突然我々が飛び込んで来られたら館野さんも困っただろうし、ヴァルカウスからあのまま歩いていたら、凍死体になっていたかもしれません。今思い返すと若気の至り、冷や汗が出ます。
タバタビト:若いころは、「今考えるとバカだった」という無謀なことをしでかしますよね。
私も身に覚えがあります。
最後に、ヒッチハイクをしてみて、フィンランドという国や人について感じたことを教えて下さい。
本多:フィンランドは第2次世界大戦で日本と同じ敗戦国で、多額の戦後賠償を払い終えた上、その後は高速道など社会基盤をたった500万人(当時)でしっかり整備していることに、堅実な国民性を感じました。また、フィンランド人はニコリともせず、顔つきはとっつきにくいのですが、話せばまじめで親切な人が多く、その後も2年間にわたって多くの人に世話になり、助けられたりしながら生活することが出来ました。
タバタビト:楽しいお話をありがとうございました。
本多先生が担当するフィンランド語講座。
次回は2016年4月開講です!
オンラインで全国どこにいても学習できますよ。
http://tavatabito.net/suomea-lv1-20160401.html
【本多雄伸先生のプロフィールはこちら】
http://tavatabito.net/suomea-opettaja.html
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【本多雄伸先生のプロフィールはこちら】
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